朝鮮半島引き揚げ時の惨事

  「和夫一家殺害事件」

大東亜戦争の終戦の日の8月15日、日本に平和は戻っていません。
それ以降も、ロシアや朝鮮、韓国人による悪行は続きました。


大東亜戦争で日本が敗れた時、
台湾では多くの日本人と台湾人が、涙を流し合いながら別れを惜しみました。
戦争の反対が平和というのであれば、
まさに、台湾における、その時の状態は終戦と言えるでしょう。


本当の日本の歴史 誇りある日本へ


簡福源さんは、



「なぜ僕らも帰らないのとおじいさんに聞くと、
『内地の人とは違う』と言われた」
「ああ僕は日本人じゃなかったのか」と初めて実感したそうです。
簡さんはこの思い出を語るたび涙ぐんだと言います。
それほど日本人意識が強かったのです。
このような台湾人は数多くいるのです。



本当の日本の歴史 誇りある日本へ


しかし、朝鮮半島では全く状況が違っていました。



キム・ワンソプ氏の著書、「親日派のための弁明」に記してある

キム・ソンス君の証言によれば、

本当の日本の歴史 誇りある日本へ
キムワンソプ氏


「日韓併合時代、
朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明らかに立派な人々も多かった。
普段から人情に厚かった和夫は、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。 貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与え、村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて

食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。

和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたが

その数は一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか
私設孤児院規模にまで増えてしまった。
けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、

自ら喜んで彼らの父、母を称した。 和夫の家族は、ふだん、
このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。

しかし、彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、

自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害された。
その日、彼がわが子のように育て、東京帝国大学に留学までさせた
Aの主導下に、彼の家で教育を受け、育ち、成人した青年たち13人が、
斧と鍬、スコップを手に、和夫のもとに押しかけた。
間髪入れず鍬が、和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に、

数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。
このとき、和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。
それまで黙っていたCは、和夫の妻を見て、彼女の長い髪をつかみ

庭の奥まったところに引きずっていった。そしてなんと13人がかりで、
ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を、強姦しはじめた。
(キム・ソンス君は、ここで自分が止めに入ったら、

自分も殺されただろうと言った)。
そして彼女は集団強姦の途中で虐殺され、Dはふだんお母さんと呼んでいた

彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず、彼女の内臓をひきずり出して、まき散らした。
和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた、普段から模範的で良い子だった

ひみこは、学校が終わって家に戻り、両親に起きた惨状を見ると、
気が触れてしまった。当時、ひみこの慟哭が何日も続き
近所の住民は眠れなかったという。その後、孤児となったひみこは、
食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。
結局、ひみこは9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
みこは小学六年生だった。和夫の財産は、和夫が精魂込めて
大切に育てた朝鮮人孤児達の手に丸ごと渡り、この事件は、
村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった」
と当事であるキム・ソンスの証言が知るさています。

本当の日本の歴史 誇りある日本へ





朱栄福さんは著書「朝鮮戦争の真実」において、


「窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫等に
アリのように人間が群がった。家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、
靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。
町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。
ある人はトランクを担いで逃げる。皆走る、ぶつかる、ののしる、
宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る
引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。
南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた
北と南に民族性の違いはないのである」
と記しています。


8月15日以降、このように虐殺され、強姦された日本人が
数多くいた事は史実です。


戦争の反対が平和とするのであれば、
8月15日が戦争が終わった日とは言えないと思うのです。


 転載元
http://ameblo.jp/create21/entry-10321579689.html#main

「朝鮮進駐軍」の非道




「朝鮮進駐軍」の朝鮮総連本部
「朝鮮進駐軍」の朝鮮総連本部


以下は、Youtubuにアップされている動画にあるテキストです。
このことは日本人全員が過去の事実として知っておくべきことです。
みなさんの手による拡散を希望します。

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「在日のタブー、朝鮮進駐軍」

※「朝鮮進駐軍(ちょうせんしんちゅうぐん)」とは。

在日朝鮮人は日本と戦争をした事実は無いにもかかわらず、終戦と同時に「朝鮮進駐軍」を自称し、日本各地において婦女暴行、暴行、略奪、警察署の襲撃、土地・建物の不法占拠、鉄道の不法乗車等、横暴の限りを尽くした。

●終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃●
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「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。

約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。
そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。

戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。

在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。
GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。

戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。

「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。
これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。

国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。

農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ 奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。

財を成したのは彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。

「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。

在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。

通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。

善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。

警官が駆けつけても手も足もでない。
終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、

「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」

と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。

戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。




今の朝鮮総連となる「在日朝鮮人連盟中央総本部」
在日朝鮮人連盟中央総本部


【昭和26年03月22日衆議院法務委員会】

【押谷委員】
お尋ねをいたしますことは、昨朝起りました朝鮮人による米兵に対する暴行事件であります。

昨 二十一日の午前三時半ごろに、浅草の千束町の朝鮮マーケット附近におきまして、六名の米兵が多数の鮮人に取囲まれまして、集団的に暴力を加えられて、一名 は死亡する、二名は負傷する、自動車も破壞されるというような不祥事を起したのでありますが、わが国の講和を前に控えて、今日日本の置かれたる国際的地位 などから考え、この時期を思いまするときに、まことに遺憾しごくな事件だと考えます。

終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。

銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。戦勝国民は治外法権だったのである。
だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。日本人は買えなかったが。

そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。

そりゃ儲かるだろう。警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。

当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。
仕入れこそ難しかった。

彼等は日本人露天商を襲って商品を奪う。

それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。
警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、
捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。

上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。


当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇有りませんでした。


東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。

当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。

永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。

そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。

この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。
上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。
かくて南関東から、牛はいなくなった。

家/畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。
川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。

翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、

「俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!」と追い立てた。


それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。
幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。

年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。
孫共はこれを知らんのだろう。

直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。
いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。

闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。

今、朝鮮人が駅前の一等地でパチ/ンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。

それでも警察は手が出せなかった。
歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。

ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。

七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった。まこと敗戦は悲しからずや。

たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。

最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。


そ れでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、はたまた北九州と 言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良 朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。我々はその火器のきらめきを間近に見た。

この時、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が、

「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」

と言い声名で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。
だから、外国人差別用語なはずは無い。
彼等自身、マッカーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。

連合国軍総司令官は、日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ外交センスの要る役職であった。

何人にもせよ、敗戦国民以外を、声名発してまで差別なんぞする筈が無い。

「第三国人」の語は、国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。


終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。

東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。

当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。

これを受けて述べたのが、マッカーサーの
「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。

1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。

その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。
不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。

すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか
「我々は先勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。

警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました

警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。

この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。

死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)

逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。
勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する
抗議としてであると述べています。

日本人として、在日朝鮮人への危機感は常に持つべきですね。


言っておくが日本国内だけではない。

朝鮮半島を朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、強姦強盗不動産窃盗と悪の限りを尽したのを皆忘れてしまったのか。

多くの日本人は、朝鮮人に襲われ、無念にも命を落とし、帰れなかった人は数知れない。

彼らの悔しさを思うと、日本人の敵朝鮮人に参政権という言葉は決して出てこないはずである。

このことを誰も伝えようとしないが、事実は決して消える物ではない。

朝鮮人の日本人に対する犯罪は、触れては成らない理由があるのか不思議な日本人達だ。



●なぜ日本にだけパチ/ンコ屋があるのか?

今から70年ほど前、日韓併合後に朝鮮人は自らの意思で日本に渡ってきた。
その後日本は第二次世界大戦で連合国(米・英・オランダ・支那・オーストラリア)と戦争に突入。英・オランダ・支那・オーストラリアには勝ったものの米に敗北し、ポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏した。

すると朝鮮人たちは「我々は戦勝国民」であると主張し、
「朝鮮進駐軍」を名乗り、各地で暴れ始めた。

日本の男たちは戦場に駆り出され、残っていたのは女、子供、老人ばかり。

朝鮮人はやりたい放題で、駅前の一等地は朝鮮人に襲撃され占領された。

もちろん、そこに住んでいた日本人女性は容赦なく強姦され追放されたのです。

当然、日本人は朝鮮人を強く憎むようになった。

そのため、在日朝鮮人は日本名を名乗るようになった。

朝鮮名を名乗ることは自分が犯罪者だと宣言しているようなものだったからだ。

その後、朝鮮人達は共産主義者と組み、マスコミを使って歴史の捏造を始めた。
「強制連行されて来た」
「土地を奪われて仕方なく来た」等など。

そして強姦・殺人犯罪を謝罪するどころか、土地を占拠し続けながら、
「俺たちは何も悪いことをしていないのに差別される」
「不当な差別を受けている」などと宣伝し始めた。

「朝鮮進駐軍」を知らない若い世代の日本人たちは在日に対して、罪悪感を持つようになった。

そして在日たちは日本人から奪い取った一等地で商売を始めた。

それがパチンコである。

今でもパチ/ンコ業/界の8割が在日が経営者である。
パチンコ業界は今や30兆円産業と言われている。

なんとあの日本が誇る自動車産業より上なのだ。

だが自動車産業とは違いこのパチ/ンコ業/界は、日本が誇るどころか日本が恥ずべき業界なのだ。

なぜならパチンコ業界は経営者の脱税と、北朝鮮への不正送金・犯罪の温床など日本人にとって極めて不利益になる事ばかりをしている。

「日本のパチンコがある限り我が国は安泰だ。」(金正日)

日本の政治家や警察にもパチンコの金が流れている。

だから
「パチンコ・パチスロはギャンブルではない娯楽だ。」
などという、馬鹿げた論理がまかり通っているのだ。


しかし祖母や曾祖母が朝鮮人に強姦された場所で、今の奴らはパチンコやスロットを打つとは・・・・・。

これは「日本人」以前に「人間」として恥ずべき行為ではないのか?

在日朝鮮人が経営するパチンコ屋が駅前に多いのではなくて、パチンコ関係の会社の経営者は在日朝鮮人が殆どです。

それぞれの企業の代表者を調べれば中国式(朝鮮式)の名前です。

名前が日本風であっても通名である場合もあります。

そしてその他の風俗店、焼肉屋などにも多いです。

なぜ強制的に連れて来られたと騙っている彼らが、差別が酷かったと騙りながらも、今のように駅前で莫大な富を生み出す違法な賭博場を開けるまでになったのでしょうか…。

終戦直後、駅前には闇市が出来上がり商売に適した場となりました。

当時、自分達を三国人と称して、自分達には治外法権が認められていると勘違いし、日本の闇市を席巻していたのは朝鮮半島出身者達でした。

彼らは「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成し、その組織の力をバックにやりたい事を
やりまくりました。

警察署でさえ武器を手に持ち押し入って、留置所から仲間を連れ出すことさえやってのけました。(全ての朝鮮人がそうであったとは言いません。しかし、同胞の不正に目を瞑っているというのは酷い事です。)

他の方も書いておられますが、悲しい事にこの勢力に対抗できるのはヤクザしかいませんでした。

この事を、今のマスコミも教科書も伝えませんが、こんな酷い話を載せる事を編集者は怖がります。

それが元で憎悪が広がりかねませんから。
そしてマスコミも教科書もこの事を書けないのは、常に朝鮮系の圧力団体(朝鮮総聯や韓国民潭)や政治的な圧力団体からの圧力があるからです。

教科書などはいつも圧力団体の抗議にさらされていますね。

こういった事実を書くと、必ず「それは民族差別である」という方が居られます。

しかし、在った事を書けば差別で、見て見ぬ振りをすれば差別ではないのでしょうか?

これは民族差別ではなく、犯罪者差別です。

日本人には民族という概念は薄く、犯罪者を嫌う、という感覚が有ると思います。

むしろ民族、民族と口やかましいのは外国人であったりします。

最近まで、北朝鮮の拉致はでっちあげだと言っていた人たちがいます。

マスコミは拉致事件を大きく取り上げませんでした。

同じように、パチ/ンコの問題も嘘で塗り固められ、マスコミは沈黙したままです

で、不法占拠に関して言えば、駅前一等地をどんどん奪っていったというわけではなく、空襲などが激しくて殆ど元の住人がいなくなった地区単位で丸ごと奪ったという例を(神戸のある地区や柏市など朝鮮人部落などと評された地域のことを)よく聞きます。

なぜこういった不法占拠が既成事実化してしまうところまで放置されてしまったのかは、弱者であることを強みにして暴力や脅迫などで民闘連を推し進めてきた成果でしょう。

新聞でちらっと書くだけで脅迫・暴行の対象になる訳ですから、ましてや教科書なんかには残るはずもない話であります。


ぶっちゃけ、在日朝鮮・韓国人は不幸の民でもなんでもないよ。

あいつらは元々半島で差別を受けていた白丁という奴/隷階級。

日本との併合で白丁たちは解放されたけど、それでも差別が強かったためにろくな職業につくことができず日本へ渡ってきた。
強制連行でもなんでもない。しかも大半が密航。

関東大震災で朝鮮人が井戸に毒を投げたとかいうデマが広がって、あいつらはいまだにそのことを恨んでギャアギャア騒いでるけど、なんの根拠もなくそういう噂が広まったわけじゃない。

朝鮮人は、震災で倒壊した建物から金品を盗み出したりしていて、それを戻ってきた住民に見つかって問い詰められると

「ココワタシノイエ!」などと開き直って家主を唖然とさせた。

それまでの東京は、家に鍵を掛けなくても泥棒なんて滅多に入らないほど治安がよかったけど、それからはみんな家に鍵を掛けるようになった。

戦後に到っては、戦勝国でもなんでもないのに(*大韓民国臨時政府は国際的に正式な臨時政府と認められていませんでした。つーか日本と韓国は当時同じ国だったからあいつらも敗戦国)

「独立だ!オレたちは朝鮮進駐軍だ!」とのたまって、各地でレイプや略奪を繰り返していました。

田舎に疎開していた人たちが家に戻ってくると、いつの間にか家が朝鮮人に乗っ取られていて

「朝鮮勝った!おまえら負けた!この家はおれのものだ!」と言って、元の住民は、ここが自分の土地だと証明する書類も戦争でなくしてしまい、どうすることもできなかったそうです。

駅前って、パチ/ンコ屋だの金融業者が多いじゃないですか。

あれって、大半が戦後に在日朝鮮人が不法占拠した土地なんですよ(*パチ/ンコ屋と金融業は8~9割が在日企業)。

在日は民潭や総連など暴力団ともつながりのある組織とつながっているため、元の地主は取り返すことができず、田舎でほそぼそと暮らしているらしいです。

さらに許せないことは、戦後の混乱しているときに、朝鮮人は神風特攻隊の飛行服を着て悪逆非道を行っていたということです。

わざわざ国のために死んでいった人たちを貶めるためにね!

これは現在の街宣右翼と呼ばれているひとたちも同じで、彼らの目的は愛国心=軍国・民族主義と一般人に刷り込むことです。

考えてもみてください、威圧的な車に乗って軍歌を大音量で流してるような人たちを普通の人が見て、こころよく思うはずがありませんよね。

彼らの大半も、日本の弱体化を狙う在日や中国人です。

あげく、最近の在日は、自分達にも参政権を寄こせとか言ってくる!

外国人に地方参政権なんかあげたら最後、韓国が領有権を主張している竹島や対馬に集団で移り住んで自治宣言→韓国領に編入されてしまいますよ!

在日が日本を愛しているわけがないんです。

いや、そもそも本当にこの国を思っているのなら、帰化して日本国籍を取ればいいじゃないですか。

民族の自尊心とやらは、帰化したくらいで無くなってしまうほど薄っぺらいものなんでしょうか?

そんなことを言ったら、元々日本人とは人種の違うアイヌ人や沖縄県民に失礼です。

テレビなんかでいかに在日が不幸な民かをやっているけど、テレビ局は多数在日が潜り込んでおり、彼らは自分達のためだけにしか動かない!

やつらは不利になると情に訴えるけど、だまされないで。

本当に彼らの言ってることが正しいのか、自分で様々な資料をよく調べて、考えてみて!


日本を守りましょう!

~~~~~~~~~~~
転載元

ねずきちの ひとりごとhttp://nezu621.blog7.fc2.com/



朝鮮・韓国人による日本人虐殺事件-『和夫一家殺害事件』

「日帝時代、慶尚道地域の日本人地主であった『和夫一家』は、日本政府の朝鮮移住政策によって、望みもしない朝鮮生活を始める事になった。普段から人情に 厚かった和夫さんは、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらな かった。

貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与えてあげ、村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。

和夫さんはとても人間への暖かい愛情を持った人であった。また、和夫さんの家族は、周囲に孤児がいると連れて帰って面倒を見ていたが、一人、二人と増えていき、1945年にはいつの間にか施設孤児院の規模にまで増えてしまっていた。

しかも、和夫夫婦はこの孤児達を家族のように愛し、自ら喜んでその子達の父母と名乗った。和夫一家は日頃から朝鮮人を愛し、日本の軍国主義を批判していた。だが、天皇の降伏宣言後、自ら育てた『朝鮮人孤児達によって、むごたらしく虐殺された』

和夫の孤児キム・ソンス君の報告

和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達 が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。

和夫:(優しい目で)何故こんなことを、お前たち。

朝鮮人A:チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!

和夫:(わざと怒り声で)「私が何かお前たちに間違った事をしたかい?お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。お前た ちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところに摘めかけてきたんだい?私 はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり 合う事は出来無いということなのかい?お前たちが望むんなら、帰ってやろう」

朝鮮人A:意味深長な目配せをBに送る。(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)

朝鮮人B:死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!

次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。和夫さんの妻は耐えられずに飛 び出してきた。それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。

そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた”。彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。朝鮮 人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。

和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた、普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触 れてしまった。当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰 一人見向きもせず、知らないふりをした。結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。「ひみこ」は小学六年生だった。和夫 の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られて いった』

日本の敗戦後、南朝鮮地域では9月初めに第24軍団が進駐するまでの約1ヶ月、無政府状態の時期があった。その時、朝鮮に住むに日本人は米軍政府の命令に従って、日本に強制引き上げさせられた、その中には虐殺された日本人も多くいた。」

転載元  朝鮮歴史館

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